取調室に辞書を持ち込む権利はあるか-通訳・黙秘権と比例原則から考える
2026/08/10
「取調べで通訳の説明がよく分からなかったとき、自分の辞書で確認してはいけないのか」。中国籍の依頼者やご家族から、しばしばいただくご質問です。刑事訴訟法にも警察の内部規則にも、これを禁じる条文は見当たりません。にもかかわらず、実務では持ち込みを拒まれる場合があります。本記事では、取調べにおけるメモ取得をめぐる最近の国会答弁を手がかりに、比例原則・黙秘権・平等原則の観点から、辞書持ち込みの可否を整理します。
本記事の要点
- 辞書の持ち込みを禁じる法律・規則の明文はなく、拒否の根拠は捜査機関の庁舎管理権にとどまる
- 捜査段階の通訳は刑事訴訟法223条1項の裁量規定にとどまり、公判(175条)より保障が薄い
- 2024年3月13日の衆議院法務委員会で、法務大臣は任意の取調べにおけるメモ取得を「禁止する規定はない」「本人の意思を通せば強制的には止められない」と明言した
- 任意の取調べで妨げられない自己防御的行為は、身柄拘束下の取調べはへというの程度が最も弱い場面である
- 同種の取扱いの相違は憲法14条の平等原則の観点からも説明を要する
通訳を受ける権利は、取調べの入口で既に弱い
日本語に通じない被疑者に対する通訳は、公判段階では刑事訴訟法175条が「通訳人に通訳をさせなければならない」と義務付けているのに対し、捜査段階では同法223条1項が「通訳を嘱託することができる」と定めるにとどまります。取調べの入口である捜査段階の通訳保障は、公判よりも一段弱い制度設計です。しかも捜査段階の通訳人は、中立な裁判所ではなく捜査機関自身が手配します。通訳の訳語に疑問を覚えたとき、その場で自ら確認する手段は、被疑者本人による自助努力以外にほとんど残されていません。辞書はその数少ない手段の一つです。
任意の取調べで既に確立した先例-メモ取得をめぐる国会答弁
2024年3月13日の衆議院法務委員会で、米山隆一議員は、取調べ中にメモを取ることを禁じる法律上の根拠があるかを質しました。これに対し小泉龍司法務大臣は、「刑訴法上は、任意の取調べや逮捕後の取調べにおいて、メモを取ることは禁止されておりません」と述べ、さらに「ご本人の意思を通されるということであれば、強制的には止められません」と明言しています。つまり、任意の取調べにおいてすら、法令上の根拠がない自己防御的な行為を、取調官が実力で阻止することはできないと、法務大臣自身が公の場で認めたのです。辞書の持ち込みも、これと同じ構造にあります。禁止する法律・規則の明文はなく、拒否の根拠は庁舎管理権という行政裁量にとどまります。
より強い制約の場面でこそ、より強く保障されるべきだ
ここで比例原則の出番です。任意の取調べは、被疑者がいつでも退去できる、国家による強制の程度が最も弱い場面です。その場面でさえ、法務大臣は自己防御的行為を実力で止められないと認めました。であれば、逮捕・勾留という、国家による強制の程度が最も強い場面においてこそ、同種の自己防御的行為は一層強く保障されなければならないはずです。任意の場面で許容されることが、強制の場面で許容されない理由はありません。むしろ、身体の自由を奪われ、通訳を介した取調べに一人で向き合う被疑者にとって、辞書という自助手段の重要性は、任意の場面よりもはるかに大きいといえます。
黙秘権・防御準備の自由と施設管理権の調整
憲法38条1項の自己負罪拒否特権、刑事訴訟法198条2項の供述拒否権告知義務は、被疑者が取調べの内容を正確に理解した上で、話すか話さないかを自ら選び取ることを保障するものです。理解が不正確なままでは、この選択権は絵に描いた餅になります。辞書は、この選択権を実質化するための道具です。これに対し、捜査機関側が持ち出しうる拒否の根拠は、庁舎管理権、すなわち施設としての機能維持のために必要な措置をとる権限にとどまります。憲法上の権利を制約する以上、その必要性・合理性は捜査機関の側が具体的に説明すべきであり、紙媒体の辞書から取調べの秩序を乱す具体的な障害が生じる蓋然性を示すことは、録音・通信機能を持つ電子機器と異なり、容易ではないはずです。
平等原則からの補強
任意の取調べで許容される自己防御的行為が、身柄拘束下では一律に拒まれるとすれば、それは身柄を拘束されているという一事をもって、同種の権利行使の機会に差が生じることを意味します。合理的な区別といえるだけの具体的な理由(たとえば、当該辞書が凶器や通信機器として使用される具体的なおそれ)が示されない限り、この差異は憲法14条1項の平等原則の観点からも説明を要する取扱いです。少なくとも、紙媒体の辞書について、身柄拘束の有無のみを理由に一律の拒否を続けることは、合理的な区別とはいえないと考えます。
舟渡国際法律事務所について
当事務所は、東京都豊島区に所在し、中国籍の依頼者を中心とする外国人刑事弁護・入管手続を主たる注力分野としています。松村大介弁護士が接見の初動から公判の結審まで一貫して直接対応し、事務員や若手弁護士による代行は行いません。外国人事件専属の中国語通訳を常駐させ、取調べへの立会いや打合せにも対応しています。通訳を介した取調べで生じる理解の齟齬は、供述調書の任意性・信用性、ひいては不起訴処分や量刑判断にも影響しうる重要な論点であり、当事務所はこうした構造的な問題そのものにも取り組んでいます。
結語
辞書の持ち込みを一律に拒む取扱いには、明文の法的根拠があるません。取調べで理解に不安を感じたときは、まずその不安を記録し、弁護人に速やかにご相談ください。本記事は一般的な解説であり、個別事案については弁護士に直接ご相談ください。本記事で言及した過去の解決実績は個別の事情に基づくものであり、同様の結果を保証するものはございません。
本記事は2026年8月時点の情報です。
執筆者
松村 大介(まつむら だいすけ)/弁護士
第一東京弁護士会所属(登録番号:59077/2019年登録)
舟渡国際法律事務所(東京都豊島区高田三丁目4番10号 布施ビル本館3階)
中国籍の依頼者を中心とする外国人刑事弁護・入管手続を主たる注力分野とする。
覚醒剤取締法違反(営利目的所持)での無罪判決獲得、特殊詐欺事案での不起訴処分獲得、難関とされた在留特別許可の獲得等の解決実績を有する。
舟渡国際法律事務所
ウェブサイト:https://matsumura-lawoffice.jp/
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