制裁的行政処分の過失の要否
2026/08/11
弁護士 松村大介(舟渡国際法律事務所)
行政庁から不利益な処分を受けた人が、「自分には落ち度がなかった」と訴えることがある。これに対し、行政庁の側はしばしば、「これは行政処分であって刑罰ではないから、あなたに過失があったかどうかは関係ない」と応じる。
この応答は、一見もっともらしく聞こえる。しかし、本当にそうなのだろうか。行政処分と一言でいっても、その中身はさまざまである。今回は、この「行政処分に過失は関係ない」という通念がどこまで正しく、どこから怪しくなるのかを、実際の裁判例を手がかりに考えてみたい。
刑事処分と行政処分の違い、という従来の説明
刑法の世界では、「責任なければ罰なし」という責任主義が大原則である。刑法38条1項は、罪を犯す意思がない行為、すなわち過失による行為は、特別の規定がある場合を除き罰しないと定める。行為者を非難できるだけの主観的な事情がなければ、刑罰という重い制裁を科してはならない。これは近代刑法の基礎であり、争いのないところである。
これに対して、行政処分の世界では、伝統的にはこれと異なる説明がなされてきた。行政法の体系書を開くと、行政上の規制権限の発動、たとえば許認可の取消しや是正命令の類は、客観的に法令違反の事実さえあれば行うことができ、相手方の故意・過失は問題とならない、という説明がしばしば見られる(宇賀克也『行政法概説Ⅰ』、原田尚彦『行政法要論』、大橋洋一『行政法Ⅰ』等、通用の体系書に共通する説明である)。
この違いは、両者の目的の違いに由来すると説明されてきた。刑罰の目的が、行為者の道義的な非難、すなわち応報にあるのに対し、行政処分の多くは、行政目的の実現や公益の確保、あるいは違法な状態の是正そのものを目的としている。是正が目的である以上、違反者に落ち度があったかどうかを問う必要はない、というのがその理屈である。制裁論を専門とする佐伯仁志氏も、刑罰と行政上の措置とでは制度の狙いが異なることを出発点に据えており(佐伯仁志『制裁論』18頁)、この目的の違いによる説明は、刑事法学と行政法学の双方に共通する理解であるといってよい。
具体例で考えるとわかりやすい。車検制度において、民間車検業者が保安基準に適合しない車両に適合証を交付してしまった場合、行政庁はこの業者に対して適合証の交付停止を命じることができるが、この停止命令は、業者の故意・過失を要件とはしていない(東京地判平成4年9月25日判タ815号172頁)。建築基準法違反の建物についても、それが建築主の関与なく施工業者が勝手に行った違反であっても、公共の利益を守るために除却を命じることができる。廃棄物処理法上の除去命令、食品衛生法上の廃棄命令なども同様である。これらはいずれも、違反者を罰することではなく、違法な状態そのものを是正し、公益を回復することが目的だからである。
そして、秩序罰としての過料についても、これまでは、客観的に違反の事実さえあれば科すことができ、行為者の故意や過失は不要である、という理解が一般的だったと推察される。過料は刑罰ではなく行政上の秩序罰にすぎないという整理が、この理解を支えてきた。
議論する実益は、どこにあるか
もっとも、ここまでの整理は、いわば理屈の上での話にとどまる。実務上この議論が意味を持つのは、あらゆる事案ではない。
明白な故意による違反、あるいは著しい怠慢による違反であれば、過失の要否を論じるまでもなく処分は是認されよう。逆に、被処分者が違反の可能性に一切気づく余地がなかったような事案であれば、行政庁の側もそもそも処分に踏み切らないことが多い。
この議論が本当に意味を持つのは、両者の中間にある限界事例、すなわち、被処分者なりに相応の注意を払っていたが、それでもなお結果として違反状態が生じてしまい、その落ち度の有無・程度そのものが評価の分かれる事案である。
こうした事案では、被処分者は「私は相応の確認をした。落ち度はなかった」と主張し、行政庁は「行政処分に過失の要否は関係がない。客観的に違反の事実があれば足りる」という一般論を持ち出して、被処分者の言い分を実質的に検討しないまま処分を維持しようとする。この攻防が生じたとき、「行政処分に過失は不要である」という命題が本当に妥当するのかどうかが、初めて現実の争点として立ち上がってくる。
言い換えれば、この議論は、行政処分一般について過失の要否を教科書的に論じるための議論ではない。個々の事案において、被処分者に「過失がなかった」という反論の余地を認めるかどうかを決する、きわめて実践的な争点である。以下、この構図が実際に争われた例をみていきたい。
横浜市路上喫煙条例事件、秩序罰の分水嶺
過料についての伝統的な理解が動いた例として、横浜市の路上喫煙禁止条例をめぐる一連の裁判例がある。
路上禁煙地区であることを示す標識に気づかないまま喫煙し、過料2000円を科された者が、その取消しを求めて争った事件である。横浜地判平成26年1月22日(判例地方自治383号82頁)、続く東京高判平成26年6月26日(判例地方自治386号65頁)は、いずれもこの過料の賦課について過失を要するとの判断を示した。
理由は明快である。標識の存在に気づく余地すらなかった者にまで一律に過料を科したとしても、違反を防止する効果は生まれない。制裁というものは、これを避けようとすれば避けられた者に対して科すからこそ、行動を改めさせる力を持つ。回避しようのなかった者を処罰しても、抑止という制裁本来の機能は働かない。この判断は、この点を正面から捉えたものといえる。
行政法学者の田中良弘氏は、この判決を契機として過料の主観的要件について詳細な考察を行い、「責任主義の観点から、明文の規定がなくても、違反者に対する非難可能性が認められない場合には過料を科すことができないと考えるべきである」と結論づけている(田中良弘「過料と過失」自治総研2025年2月号14頁以下)。
過料は、これまで「客観的違反さえあれば足りる」という理解の代表例とされてきた領域である。その過料についてすら過失が要求されるに至ったことは、「行政処分だから過失は関係ない」という通念が、実は無条件に成り立つものではないことを示している。しかも、この事件で科された過料はわずか2000円にすぎない。実害の小さいこの種の秩序罰についてすら過失が要求されるのであれば、それよりもはるかに重い不利益を伴う処分について、過失を不要とする理由はいっそう見当たらなくなる。
是正措置と制裁とを分けて考える
では、なぜ同じ「行政処分」という括りの中で、扱いが分かれるのか。
私は、行政処分を一律に論じるのではなく、その処分が何を目的としているかによって、二つに分けて考えるべきだと考えている。
一方には、違法な状態そのものを是正し、公益を守ることを目的とする処分がある。先に挙げた車検の適合証交付停止、建築基準法上の除却命令、廃棄物の除去命令などがこれにあたる。これらは、違反者を罰することが目的ではなく、放置すれば公共の利益が害される状態を除去することが目的である。だからこそ、違反者に落ち度があったかどうかを問わず、客観的な違反の事実だけで発動してよい。
他方には、違反したという事実そのものに着目し、その違反の悪質さの程度に応じて不利益を科す処分がある。営業停止命令や許可の取消しなど、実質において制裁の性格を持つ処分がこれにあたる。こちらは、その悪質さの程度を判定する必要がある以上、違反者の故意・過失の程度が重要な意味を持つ。
この整理は、机上の理論にとどまらない。健康保険法80条は、保険医療機関等の指定取消しについて、違反があった場合でも、当該医療機関が違反を防止するために相当の注意及び監督を尽くしていたときはこの限りでないと明文で定めている。一級建築士の懲戒処分の基準においても、委託先の設計を監督する立場にある者を処分する場合には、客観的に違反があったというだけでなく、監督者として十分な注意を尽くしたかどうかが基準とされるべきものとされている。公務員に対する懲戒処分も、制裁である以上、被処分者の有責性を要するとされ、責任能力を欠く状態での非違行為に対する懲戒免職処分を無効とした裁判例もある。
飲食店の食中毒事故で保健所が営業停止処分をしたものの、後に原因が食材の加工業者にあったと判明した場合を考えてもよい。原因が判明した以上、飲食店に責任はなく、この処分はもはや制裁として維持できない。原因不明の段階で再発防止のために暫定的に営業を止めることと、責任の所在が判明した後もなお制裁として処分を維持することとは、まったく別の話である。
こうしてみると、「行政処分だから過失は不要」という一般論は、行政処分のうち是正措置としての性格を持つものについて妥当するにとどまり、実質的に制裁としての性格を持つ処分にまでそのまま及ぼしてよいものではないことがわかる。
不法就労助長の認定、もう一つの限界事例
この対立が先鋭に現れる場面が、出入国管理及び難民認定法における不法就労助長の認定である。
同法は、事業活動に関して外国人に不法就労活動をさせた者を退去強制の対象とする一方、刑事罰の規定においては、行為者がその外国人の活動が資格外活動であることを知らなかったことについて過失がなかったときは処罰を免れる旨を明文で定めている。ところが、退去強制事由としての不法就労助長の規定には、この無過失の抗弁にあたる規定が置かれていない。この文言の違いを理由に、退去強制事由としての不法就労助長の認定には、過失はおろか、資格外活動であることの認識すら不要である、と判断した裁判例がある。
しかし、退去強制は、外国人がその国で築いてきた生活の基盤のすべてを一度に奪う、実質において刑罰にも匹敵する重い不利益である。行政処分という名前がついているというだけで、責任主義の要請が及ばないと考えるのは、処分の実質から目を背けた形式論というほかない。
実際に問題となる事案の多くは、故意に不法就労を助けたような悪質な事案ではない。採用の権限を持たない一従業員が、面接の場で提示された在留カードや旅券の原本を確認し、真贋確認のためのアプリケーションも用いて、できる限りの確認を尽くしたにもかかわらず、他人になりすました巧妙な手口を見抜けなかった、というような事案である。感染症の流行という当時の社会情勢のもとで、マスクを外させてまで写真と照合するところまでは行わなかったことをもって、後から「その確認が足りなかった」と評価すべきかどうかは、まさに評価の分かれる限界事例というほかない。
こうした事案でこそ、「行政処分だから過失は関係ない」という一般論が、実質的には落ち度のなかった者を、刑罰に匹敵する重い処分の対象としてしまう危うさを持つ。健康保険法や建築士法の懲戒処分の場面で、相当の注意を尽くした者を制裁の対象から外す仕組みが用意されているのと同じ発想が、なぜ退去強制の場面にだけ及ばないのか。私には、その理由を説明する立法上の根拠は見当たらない。
憲法31条が保障する適正手続の趣旨は、刑罰にのみ及ぶものではなく、自由を奪う程度の重大な不利益処分にも及ぶと解する余地がある。退去強制がまさにその重大な不利益にあたるとすれば、責任なき者に退去強制という結果を負わせることは、この適正手続の要請とも整合しない。制裁としての実質を持つ処分である以上、明文の免責規定の有無にかかわらず、責任主義の観点から過失を要すると解するのが筋であると、私は考えている。
おわりに
「行政処分だから過失は関係ない」という言い方は、規制権限の中でも、違法な状態を是正すること自体を目的とする処分については、一定の正しさを持つ。しかし、その処分が実質において制裁としての性格を持つとき、この言い方はそのままでは通用しない。
横浜市の路上喫煙条例をめぐる裁判例は、これまで無過失でも科してよいと考えられてきた過料についてすら、この理解を修正した。不法就労助長の認定と退去強制についても、同じ理屈が及ぶはずである。
この議論の実益は、故意犯や重過失の事案にはない。相応の注意を尽くしながらも結果として違反状態に至ってしまった人が、行政庁から「行政処分に過失は関係ない」の一言で切り捨てられてよいのかどうか。そこにこそ、この議論の意味がある。
