「松江支部」の4文字が消えた日|法廷通訳の脱落と、裁判を受ける権利の実質的保障
2026/09/18
弁護士 松村大介
はじめに
判決の言渡しが終わり、裁判官が最後に被告人に告げる言葉があります。
「この判決に不服があれば、明日から14日以内に、○○高等裁判所あての控訴申立書を当裁判所に提出してください。」
法廷ではほぼ決まり文句のように聞こえるため、傍聴席で気に留める人はほとんどいません。しかし被告人にとっては、有罪判決を争う唯一の道筋を示す、手続上もっとも重要な告知の一つです。
私が弁護人を務めたベトナム国籍の男性の刑事事件で、この告知の一部が通訳されませんでした。控訴審・上告審でこの点を争いましたが、裁判所は私の主張を採用しませんでした。
判決の結論は結論として受け止めます。それでも、裁判を受ける権利を実質的に保障するという観点からは、この判断には見過ごせない問題が残ると考えています。本稿では、控訴趣意書と上告趣意書で私が何を問題にしたのかを整理し、あわせて、日本の法廷で「いい加減な通訳」が現に起きているという実情を記録しておきます。
(依頼者のプライバシーに配慮し、氏名・事件番号・事案の詳細は伏せています。)
1 何が起きたのか
事件は、松江地方裁判所出雲支部で審理された私文書偽造・同行使事件です。被告人はベトナム国籍で、日本語は日常会話程度はできますが、法律用語を含む法廷のやりとりを理解できるほどではありません。そのため、ベトナム語の通訳人が選任されていました。
判決は執行猶予付きの有罪判決でした。問題は、判決宣告の最後に起きました。
裁判官は、おおむね次のように告げました。
「この判決に不服があれば、明日から14日以内に広島高等裁判所松江支部あてに控訴申立書を提出してください。」
ところが、通訳人がベトナム語で伝えた内容は、次のとおりでした。
「この判決に不服があれば、明日から14日以内に広島高等裁判所あてに控訴申立書を提出してください。」
「松江支部」の部分が、そっくり抜け落ちていたのです。
私はベトナム語の通訳の中に、裁判官の言った「松江支部」に当たる部分が出てこないことに、その場で気づきました。
一方、この期日の公判調書には「本件判決宣告は通訳人を介して行った。」と記載されました。読む人が、裁判官の発言がそのまま正確に通訳されたと受け取る書き方です。
そこで私は、判決宣告の翌日、刑事訴訟法51条1項に基づいて公判調書に対する異議を申し立て、同じ日に控訴を申し立てました。
2 「たかが4文字」ではない理由
「高等裁判所の名前が一部抜けただけではないか」「控訴申立書は第一審裁判所に出すのだから、実害はないだろう」。こうした反応は予想できます。実際、控訴審でも上告審でも、裁判所の判断はおおむねその方向でした。
しかし、私がこの問題にこだわったのは、次の3つの理由からです。
(1) 上訴に関する告知は、裁判を受ける権利の入口である
刑事訴訟規則220条は、次のように定めています。
「有罪の判決の宣告をする場合には、被告人に対し、上訴期間及び上訴申立書を差し出すべき裁判所を告知しなければならない。」
上訴期間を知らなければ期間を徒過します。どこに何を出せばよいか分からなければ、控訴の申立てそのものができません。上訴に関する告知は、判決を受けた被告人が次の審級で裁判を受けるための「入口の案内」です。
そして実務上、控訴申立書には控訴裁判所を記載します。どの高等裁判所(本庁か支部か)に係属するのかは、被告人が控訴申立書を作るときに必要となる情報です。だからこそ、全国の法廷で裁判官は「○○高等裁判所○○支部あて」と、控訴裁判所まで告げているのです。
(2) 通訳されなければ、告知しなかったのと同じである
日本語を十分に理解できない被告人にとって、通訳されなかった言葉は、法廷で発せられなかった言葉と同じです。
刑事訴訟法175条は、「国語に通じない者に陳述をさせる場合には、通訳人に通訳をさせなければならない。」と定めています。「させなければならない」は、裁判所に作為義務を課す法令用語です。通訳を付けるかどうかは、裁判所の裁量ではありません。通訳人が選任された以上、裁判所は、法廷のやりとり、とりわけ裁判官自身の発言を、正確に被告人に届ける責任を負います。
裁判官が日本語で正しく告知しても、それが被告人の理解できる言語で伝わっていなければ、被告人に対する告知があったとは評価できません。
(3) 「気づいた人がいたから助かった」では、制度として成り立たない
この事件で実害が生じなかったのは、たまたまベトナム語の通訳を聞いていた弁護人が、脱落に気づいたからにすぎません。
しかし、法廷通訳の正確性を、弁護人の語学力や注意力という「偶然」に委ねてよいはずがありません。弁護人が当該言語を解さなければ、脱落は誰にも気づかれず、公判調書には「通訳人を介して行った」とだけ残り、何もなかったことになります。
さらに言えば、判決宣告の最後の定型的な告知は、法廷の中でもっとも単純で、もっとも準備しやすい通訳場面です。その場面で脱落が起きたのであれば、証人尋問や被告人質問など、より複雑でより速いやりとりの中で、どれだけの内容が正確に伝わっていたのか。問題は4文字にとどまりません。通訳全体の信頼性そのものが問われているのです。
3 控訴趣意書で主張したこと
控訴審(広島高等裁判所松江支部)では、訴訟手続の法令違反(刑訴法379条)として、主に次の点を主張しました。
第1に、刑訴規則220条違反です。 控訴申立書には控訴裁判所を記載するのが実務なので、「上訴申立書を差し出すべき裁判所」の告知には、控訴裁判所の告知も含まれると解すべきです。そして、通訳されなかった以上、被告人に対する告知はなかったものと評価されます。
第2に、憲法31条・刑訴法175条違反です。 外国人被告人が通訳を求める権利は、適正手続を保障する憲法31条によって保障されます。裁判官の発言を正確に通訳させなかったことは、この保障に反します。
第3に、憲法14条1項違反です。 全国の法廷で、裁判官は判決宣告の際に控訴裁判所まで告げています。私自身、全国各地で公判弁護を担当してきましたが、控訴裁判所の告知がなかった例はありません。仮にこれが法律上の義務でないとしても、ここまで一律に行われている以上、裁判所の任意のサービスとはいえず、確立した運用です。日本語を解する被告人には届く告知が、通訳を要する外国人被告人にだけ届かない。これを正当化する合理的な理由はありません。
控訴審判決は、これらの主張を排斥して、控訴を棄却しました。
4 上告趣意書で主張したこと
上告審では、論点を憲法32条(裁判を受ける権利)に絞りました。
(1) 「実質上の裁判の拒否」も憲法32条違反である
最高裁大法廷昭和24年5月18日判決は、出訴期間の短縮について、「その期間が著しく不合理で実質上裁判の拒否と認められるような場合でない限り」憲法32条に違反しないと述べています。
この判示を裏から読めば、形式的には裁判の機会が与えられていても、実質上裁判の拒否と認められる場合には、憲法32条に違反するということになります。
(2) 上訴に関する告知は、憲法32条が直接保障するものである
裁判を受ける権利には、誤判を防ぐため上級審の判断を求める機会も含まれます。そうであれば、被告人が上訴権を適切に行使できるように、上訴期間と上訴先を告知することは、憲法32条が直接要請するものと解すべきです。刑訴規則220条は、その憲法上の要請を確認的に規定したものにすぎません。
仮にそう解さないと、判決の宣告だけがされて上訴に関する告知が脱落した場合、被告人は上訴期間も上訴先も知らないまま判決が確定し、上訴の機会を失います。これはまさに「実質上の裁判の拒否」です。
(3) 検察官の反論と、それに対する応答
控訴審で検察官は、札幌高裁昭和26年6月28日判決などを引いて、上訴期間の告知がなくても判決の効力には影響しない、と反論しました。
これに対し、上告趣意書では次のように述べました。
- 上訴に関する告知が憲法32条の直接の保障に属する以上、札幌高裁昭和26年判決の考え方は見直されるべきである。
- 最高裁第二小法廷平成19年6月19日決定は、検察官が在廷しないまま判決を宣告した事案で、手続の違法が判決の無効をもたらすほど重大であるとして、「判決に影響を及ぼすことが明らか」と判断した。本件でも、憲法上の権利に関わる重大な手続の瑕疵は、同様に評価されるべきである。
- 民事訴訟では、判決送達の瑕疵を理由に上訴期間が進行していないとして、上訴権を救済した裁判例が少なくない。刑事訴訟では、上訴権の保障がそれ以上に強く求められるはずである。
(4) 最高裁の判断
最高裁第二小法廷は、令和8年2月2日、次の理由で上告を棄却しました。
「弁護人松村大介の上告趣意は、憲法違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない。」
いわゆる「三行決定」(理由を定型文のみで示す決定)です。憲法32条の保障範囲について、最高裁は実質的な判断を示しませんでした。
5 判決に対する私の評価
結論として、弁護人の主張は採用されませんでした。この事件で実際に控訴の機会が失われなかったことを考えれば、裁判所がこの結論を選んだ理由は理解できます。
しかし、それでも私は、この判断には問題があると考えます。理由は2つあります。
1つ目は、判断が「結果として実害がなかったか」に偏っていることです。 本件で上訴の機会が守られたのは、弁護人が通訳の脱落にその場で気づき、翌日に異議と控訴を申し立てたからです。手続保障の水準を、事後的に「救われたかどうか」で測れば、救われなかった被告人の事件は、そもそも裁判所の目に触れません。脱落に誰も気づかなければ、記録上は「通訳人を介して行った」とだけ残り、問題は永久に表に出ないのです。
2つ目は、「単なる法令違反」という整理が、外国人被告人の置かれた構造的な不利益を見えなくしていることです。 日本語を解する被告人には、裁判官の告知はそのまま届きます。通訳を要する被告人には、通訳人というフィルターを通ったものしか届きません。そのフィルターの品質を誰も保証していないとき、裁判を受ける権利の実質は、被告人の母語によって変わってしまいます。これは、個々の規則違反の問題ではなく、憲法32条・14条の問題として正面から扱われるべきものだと考えます。
国際人権規約(自由権規約)14条3項(f)も、刑事被告人に対し、裁判所で使われる言語を理解できない場合に無料で通訳の援助を受ける権利を保障しています。ここで求められているのは、通訳人が法廷に座っていることではなく、手続の内容が被告人に実際に伝わることのはずです。
6 「いい加減な通訳」が存在するという実情
ここからは、この事件を離れて、率直に書きます。
法廷通訳の多くは、誠実に、高い水準で職務を果たしています。そのことを前提としたうえで、私が中国語・ベトナム語などの通訳事件を数多く担当してきた経験からいえば、次のような場面は決して珍しくありません。
- 裁判官や検察官の長い発言が、明らかに短く要約されて通訳される。
- 被告人の答えのうち、言いよどみや限定(「たぶん」「よく覚えていない」など)が落ち、断定的な日本語に置き換えられる。
- 法律用語(「未必の故意」「執行猶予」「没収」など)が、意味の異なる日常語で通訳される。
- 定型的な告知が、通訳人の判断で省略される。
とりわけ2つ目は深刻です。供述のニュアンスが変われば、故意の有無や程度、反省の深さといった、有罪・無罪や量刑に直結する事実認定が変わりえます。
それでも、こうした問題はほとんど表に出ません。理由は明らかです。
第1に、法廷通訳は録音されず、検証できないことが多い。 公判調書に残るのは日本語だけです。原語で何が話され、どう通訳されたのかは、記録上、確かめようがありません。
第2に、法廷にいる当事者の多くは、通訳言語を理解できない。 裁判官も検察官も、多くの場合弁護人も、被告人の母語を解しません。誤訳や脱落があっても、指摘できる人がいないのです。
第3に、法廷通訳人には、国家資格のような統一的な資格制度がない。 裁判所が面接などを経て通訳人候補者として登載する仕組みはありますが、通訳の品質を客観的に担保する仕組みとしては十分とはいえません。法廷通訳人の資格制度の必要性は、以前から指摘されてきました。
こうした構造の中で、本件のように脱落が「見つかった」のは、例外的な偶然です。見つかった一件の背後に、見つからなかった多くの事件があると考えるのが自然でしょう。
7 これから必要なこと
本件の上告は退けられましたが、問題が解決したわけではありません。弁護人として、また制度に関わる者として、次のことが必要だと考えています。
- 法廷通訳の録音と、事後検証の仕組み。 原語での発言と通訳を記録し、争いがあれば検証できるようにすること。これがない限り、通訳の誤りは永久に「なかったこと」になります。
- 法廷通訳人の資格・研修制度の整備。 語学力に加え、刑事手続と法律用語の理解を客観的に担保すること。
- 弁護人の側の備え。 通訳事件では、可能な限り被告人の母語を解する者を弁護側に置く、判決後に上訴に関する告知の内容を被告人に改めて母語で確認するなど、「通訳に任せきりにしない」運用が必要です。
- 判例の発展。 上訴に関する告知と通訳の正確性が、憲法32条・31条・14条にかかわる問題であることを、訴訟の場で粘り強く主張し続けること。
おわりに
この事件で「松江支部」の4文字が消えたことは、判決の結論を変えなかったかもしれません。しかし、その4文字は、日本の法廷で外国人被告人がどのような状況で裁かれているのかを、はっきりと示していました。
裁判を受ける権利は、法廷の扉が開いていることだけでは保障されません。扉の向こうで何が語られているのかが、被告人自身に伝わってはじめて、その権利は実質を持ちます。
最高裁は三行で上告を退けました。それでも、この問題を提起したこと自体に意味があったと私は考えています。次に同じことが起きたとき、誰かがそれに気づき、声を上げられるように。そのための記録として、本稿を残します。
弁護士 松村大介(第一東京弁護士会/舟渡国際法律事務所)
外国人刑事弁護・入管行政訴訟を中心に取り扱っています。
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